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ドストエフスキー『貧しき人びと(Бедные люди)』(木村浩・訳 新潮文庫)

Posted by arnoldkillshot on 29.2011 本の紹介 0 comments 0 trackback
ドストエフスキー『貧しき人びと』(木村浩・訳 新潮文庫)を紹介します。この物語は、貧しい小役人マカール・ジェーヴシキンと身寄りのない薄幸の女性ワルワーラとの往復書簡の形で語られる、貧しさに苦しめられる人々の物語です。ささやかな幸福を求めて生きる彼らを次々と襲う貧乏と不幸の悪循環がリアルに描かれていて、その悲惨さは痛々しさを通り越して笑うしかなくなってしまうほどです。その貧しさゆえの不幸に加え、マカールの愛とワルワーラの愛の微妙なズレがまた切ないです。以下から心に残った個所の引用です。

*********

……ところで、市民として一番大きな美徳というものはなんでしょう?この間、エフスターフィ・イワーノヴィチがわたしとの話のなかで、この問題について、一番大切な市民としての美徳とは金儲けの才能だといっていました。これは冗談でいったことですが(これが冗談だったということはわたしも知っています)、そこに含まれている教訓は、相手が誰であろうとも他人の厄介になるな、ということです。ところでわたしは誰に対しても厄介になっておりません!わたしはちゃんと自分のパンを持っています。たしかに、それはありふれたパンで、時にはぼろぼろに乾いていることもありますが、それでもこれは自分で働いて得たパンですから、誰からも後ろ指さされずに、堂々と食べてよいものです。これで十分じゃありませんか!筆耕の稼ぎなんかわずかなものだと、自分でも承知していますが、とにかくわたしはそれを誇りとしています。なにしろ、わたしは働いて、汗をながしているんですから。それじゃ、わたしが筆耕していることに、何か変なことでもあるんでしょうか!筆耕は罪悪だとでもいうのでしょうか?「あの男は筆耕をやっている!」とか「あの鼠みたいな役人は筆耕をやっている!」とかいいますが、筆耕のどこが悪いのでしょう?きちんと美しく書いた手紙は見た目にも気持がいいし、閣下も満足しておられるのですから。わたしは閣下方のために、一番重要な書類を浄書しているんです。そりゃ文章はなっていません。そりゃわたしだって自分に文才がないことぐらいは知っています。ですから役所でもそのほうには手をつけませんでしたし、今でもきみに手紙を書くときだって、気取らずに、あっさりと、心に浮ぶままのことを書いているんです……。そんなことは自分でも百も承知しています。そうはいうものの、もしみんなが文章を書くようになったら、いったい誰が浄書をするんです?さあ、この質問を出しますから、ひとつ返事を聞かしてください。そんなわけで、わたしは自分が必要な、なくてはならない人間であることを知っているので、くだらない悪口でまごつくようなことはありません。鼠だってかまいません。もし似ているというなら、そうしておきましょう!ところがこの鼠は必要な鼠で、役に立つ鼠で、人に頼りにされる鼠で、しかもボーナスまで貰えるという――そういうすばらしい鼠なんですから!……

*********

今回の主人公マカールにしろ、『白痴』のムイシュキン公爵にしろ、ドストエフスキーは字を綺麗に書く人間が好きなようですね。自分で文章を書くのではなく、人の書いた文章を美しくする彼らは、自分のことばを持たず自分のことばで語る厚かましさのない、弱く純粋な人間という点で共通しています。それから上記の「鼠」の比喩は『白痴』のムイシュキン公爵の「私はあくまで驢馬の味方です。驢馬(ばか)は善良で有益な人間ですからね」という言葉を彷彿とさせます。やはり処女作の『貧しき人びと』は後の作品の原点になっているんだなあと感じさせる類似点ですね。

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『トゥルーマン・ショー』(原題:The Truman Show)

Posted by arnoldkillshot on 28.2011 映画タイトル:た行 0 comments 0 trackback
個人的な話で恐縮ですが、この映画の世界が私の原風景になっています。虚構の世界から抜け出して、本物の生を掴もうとする真実の人間(トゥルーマン)。だからこの『トゥルーマン・ショー』の場面を思い浮かべると、トゥルーマンのように世界の偽りを越えて自分の人生を生きていけるのだという心の中に勇気がわいてきます。
もしかしたら自分の世界がすべて虚構なのではないか……そう考えたことは誰にも1度はあるかもしれません。この『トゥルーマン・ショー』ではその「もしかしたら」を描いた作品です。愛する家族や友人に囲まれて平凡な人生を送るトゥルーマン。しかし彼の人生はすべて作り上げられた虚構の世界で、TVで全世界に放送されているのでした……そのことに気付き、虚構から抜け出して本当の人生を生きようともがくトゥルーマンの姿に、誰もが勇気を与えられるはずです。なぜなら彼の思いは誰の心にも一度はかすめたことがあるはずなのだから。

『トゥルーマン・ショー』(原題:The Truman Show)
1998年 アメリカ
監督:ピーター・ウィアー
脚本:アンドリュー・ニコル
出演:ジム・キャリー、エド・ハリス、ローラ・リニー、ノア・エメリッヒ、ナターシャ・マケルホーン 他

あらすじ:
海に近い町シーヘヴンに暮らす心優しい青年トゥルーマン(ジム・キャリー)は、看護婦の妻メリル(ローラ・リニー)や親友のマーロン(ノア・エメリッヒ)などに囲まれながら平凡な毎日を過ごしていた。しかし彼はかつて大学で出会ったローレン(ナターシャ・マケルホーン)との束の間の恋が忘れられず、彼女がいるはずのフィジーへ旅立ちたいという想いがつのっていた。
そんなある朝、トゥルーマンは死んだはずの彼の父と突然出くわすが、町の人々が彼を連れ去ってしまう。その時から彼は自分の日常の不自然さに気付き始める…それもそのはず、実はトゥルーマンは誕生の瞬間から全人生をTVで放送されており、彼の世界はすべてドラマの中のものだった――彼の家族も友人も、そして父が海で死んだという記憶さえも番組のプロデューサー・クリストフ(エド・ハリス)が作り出した虚構で、すべて役者が演じたものだった。自分の住む世界の異常さに気付いたトゥルーマンはここから逃げ出そうとするが、番組を進行させようとするスタッフたちによって不自然に妨害される。自分が狂っているのか、それとも本当に世界そのものが偽物なのか――混乱するトゥルーマンの前に、再び死んだはずの父が現れる……
しかし突然TVの前からトゥルーマンが姿を消す。クリストフは全スタッフを動員して彼を探させるが、彼はひとり海に出ていた。クリストフは番組のリアリティすら捨て、この虚構の世界を抜け出そうとするトゥルーマンを止めようとするが……

『ラースと、その彼女』(原題:Lars And The Real Girl)

Posted by arnoldkillshot on 24.2011 映画タイトル:ら行 0 comments 0 trackback
孤独な青年が、恋人に等身大のラブドールを連れてきた――そんなことが自分の身近に起きたら、いくら主人公ラースが心優しい青年とはいえ、狂気の沙汰だと思ってしまうかもしれません。しかしそこが『ラースと、その彼女』が普通とは違うところで、むしろ彼の妄想をみんなで受け入れてしまいます。人とのふれあいが「痛い」と感じるラースと、そんな彼の痛みが分からない人々が、人形に命を吹き込むことによって少しずつつながっていく――ちょっと奇妙だけど温かな魔法が、ラースと人々との現実の絆を築きあげていく奇跡。この映画の魔法は、かたくなに閉ざされている人もちょっと信じてみたくなるような素敵な魔法です。

『ラースと、その彼女』(原題:Lars And The Real Girl)
2006年 アメリカ
監督:クレイグ・ギレスピー
出演:ライアン・ゴズリング、エミリー・モーティマー、ポール・シュナイダー、パトリシア・クラークソン

あらすじ:
小さな田舎町の家のガレージに住むラース(ライアン・ゴズリング)は、あまりにも心やさしく繊細なために、人々から愛されているにもかかわらず人との関わりを避けて暮らしていた。家の母屋に暮らす兄ガス(ポール・シュナイダー)の妻カリン(エミリー・モーティマー)はそんな彼を心配して家に招いたりと世話を焼くが、ラースはそんな気遣いに苦痛を感じる。ある日、そんなラースが兄夫婦に彼女を紹介するという。しかし彼の紹介した彼女は、等身大のラブドール、ビアンカだった。ただの人形でしかないビアンカに生きた人間のように接し話をするラースを見て、とうとう気が狂ったと嘆く兄ガスと、なんとか彼を支えようとするカリン。二人は医師のダグマー先生(パトリシア・クラークソン)に相談するが、ダグマー先生は「ラースが必要としているからビアンカは実在している」と判断し、彼らにもビアンカを生きた人間として扱うよう諭す。そしてラースにはビアンカは体が弱っているから一緒に通院するように言い、
こうして兄夫婦は小さな町中の人にラースとビアンカのことを説明し、皆にビアンカを人間として扱わせることにする。内心では驚き奇妙な眼で見ながらも、あくまでラースとビアンカが普通のカップルであるかのように接する人々。ラースにほのかな恋心を抱く同僚のマーゴもその中にいた。一方ラースもビアンカとの愛や町の人々の協力によって、人の輪のなかに入っていくことを覚えていく――しかしそれでも人とふれあうことの恐怖と苦痛は消えなかった。そんなラースの恐怖心が彼の母が彼を生んで死んだことに由来することにダグマー先生は気づく。一方町の人々がビアンカを待ちの仲間に加えようとする試みは増していき、ビアンカが人形ではなく"一人の人間"として存在することによってラースは否応なしに現実に向き合わねばならなくなるが…

Aphrodite's Child-End Of The World

Posted by arnoldkillshot on 24.2011 洋楽歌詞和訳 0 comments 0 trackback
ギリシャのプログレバンド、Aphrodhite's Childの1968年のファーストアルバム"End Of The World"より、1曲目のタイトル曲"End Of The World"を紹介します。このバンドはヴァンゲリスが在籍していたことで有名ですが、ボーカル・ベースのデミス・ルソスも現在はギリシャの国民的な歌手なのだそうです。
このアルバムは、バンドを有名にした"Rain And Tears"のような穏やかで優しい曲や"Mr.Thomas"のような楽しげな曲からなる明るい面と、この"End Of The World"や最後の"Day Of The Fool"のような狂気を孕んだ悲哀に満ちた暗い面の両方があって非常に聞きごたえがあります。
この"End Of The World"はAphrodite's Childの曲のなかで私が初めて聞いた曲でした。"世界の終わり"というタイトルの曲は数あれど、ここまで絶望的で、儚げな悲しさのなかに激しい狂気をたたえた世界の終わりについての曲はないと思います。冒頭の叩きつけるピアノの音や、コーラスの終わりの叫びがそんな絶望的な悲しみと狂気を強烈に印象付けていると思います。
元の歌詞はこちらを参考にしました。

Aphrodite's Child-End Of The World

You should come with me to the end of the world,
世界の終わりへ一緒においでよ

Without telling your parents and your friends.
パパやママや友達にも告げずに

You know that you only need to say the word,
ただ一言云ってくれすればいいんだ

So end my play with the end of the world.
そしたら世界の終わりとの戯れを終わりにしよう


But I know that I'll go away by myself,
でも僕は知っている 僕一人で行くのだろうと

I feel you don't want to come.
君は行きたくないのだと僕は感じている


You should come with me to the end of the world,
世界の終わりへ君もおいでよ

We could lay all day on the quiet sands.
しじまの砂の上に一日じゅう寝そべっていられるんだ

I would introduce you to my friend the bird
僕の友達の小鳥たちに君のことを紹介してあげる

Who sings and flies along the fairy strand
妖精のより糸に沿って飛びながら歌うんだよ


But I know that I'll go away by myself
でも僕は知っている 僕一人で旅立つだろうと

I feel you don't want to come.
君は行きたくないのだと僕は感じる


If you come with me to the end of the world,
僕と世界の終わりに来てくれたら

I'll give you anything that lives on earth.
この地上の命すべてを君にあげよう

You know that you only need to say the word
ただあの言葉を云ってくれればいいんだ

So end my play with the end of the world.
そしたら世界の終わりとの遊びもおしまいさ


But I know that I'll go away by myself
でも僕は知っている 旅立つのは僕一人だと

I feel you don't want to come.
君は来たくないのだと僕は感じる


Aphrodites Child - End of the world 投稿者 Salut-les-copains



The Departure-Just Like TV

Posted by arnoldkillshot on 24.2011 洋楽歌詞和訳 0 comments 0 trackback
イギリスで2004~2008年に活動したバンド、The Departureの結局唯一となってしまったアルバム"Dirty Words"より、1曲目の"Just Like TV"を紹介します(このブログで紹介するのってなぜかアルバムの1曲目が多いですね…)。
感情度低めのクールなポストパンクリバイバル系のサウンドが冴える素敵なバンドで、聞いていると寒色系の冷たい世界に沈潜できます。
翻訳の元の歌詞はこちらから。

The Departure-Just Like TV

I'm climbing up the walls
壁をよじ登って

I'm trying to get a look I can't see
見えない眺めを手に入れようとしてるんだ

Pushing away hands that grab
差し伸ばした手で掴もうとしてる

At what they could never be
かつて誰もなれなかった存在を

Oh I can almost touch it
ああ あと少しで触れられそうだ


Climbing up the walls
壁をよじ登って

They're trying to get under my skin
奴らは僕の皮膚の下に侵入しようとしてる

Oh I am just a boy
僕はただの子どもだから

So easy to sway
簡単に揺れ動く

They can't see
奴らにはそれがわからない

Just go ahead and try it
さあ、どうぞやってみろよ


It's just like TV
まるでTVのようさ

Everything I could ever be
僕が今までなれたかも知れない全てが

Is out of my hands
僕の手には届かない

It's out of my hands
僕の手には届かないんだ


I'm climbing up the walls
壁をよじ登って

I'm trying to catch a breath
息をしようともがいてる

I can't speak
言葉が出ない

Oh everyone is shouting
誰もが叫んでるけど

But what are they to me
それは僕に向けられてるのか?

When I can almost touch it
僕がやっと届きそうになったとき

And you just want to have it all
あんたたちはすでに手に入れてしまってるんだ


It's just like TV
まるでTVのようさ

Everything I could ever be
僕の可能性の全てが

Is out of my hands
僕の手からすり抜けてく

It's out of my hands
僕の手には届かない


You found an easy way in
楽な入口を見つけたんだろ

Go find another easy way out
また別の楽な出口を探しに行けよ


It's just like TV
まるでTVのようさ

Everything I could ever be
僕がなれたかもしれない僕が

Is out of my hands
みんな僕の手から消えていく

It's out of my hands
僕の手は届かない

It's out of my hands
僕の手は届かない

It's out of my hands
僕の手は届かないんだ




Death Cab For Cutie-Soul Meets Body

Posted by arnoldkillshot on 24.2011 洋楽歌詞和訳 0 comments 0 trackback
Death Cab For Cutieの"Soul Meets Body"を対訳しました。デスキャブを初めて知った曲で、この澄んだ世界観があっという間に好きになりました。歌詞はこちらを参考にしました。

Death Cab For Cutie-Soul Meets Body

I want to live where soul meets body
心と体が重なる瞬間を 僕は生きたい

And let the sun wrap its arms around me
太陽の腕に包まれて

And bathe my skin in water cool and cleansing
清らかな冷たい水に肌を浸したら

And feel, feel what its like to be new
感じるのさ 生まれ変わる感覚を


Cause in my head there’s a greyhound station
だって僕の頭の中にはグレイハウンド・バスの停留所があって

Where I send my thoughts to far off destinations
遠くの目的地まで 僕の思考を送るから

So they may have a chance of finding a place
そうすれば見つけられるかもしれない

where they’re far more suited than here
ここではない あるべき場所が


And I cannot guess what we'll discover
何が見つけられるだろう

When we turn the dirt with our palms cupped like shovels
ゴミ溜めを手のひらでシャベルのように掘り返したら

But I know our filthy hands can wash one another’s
でも汚れてしまったその手を もう一人の手が洗ってくれる

And not one speck will remain
一点の汚れもないように


And I do believe it’s true
それは本当なんだよ

That there are roads left in both of our shoes
僕らの靴で進んでいける道がある

But if the silence takes you
でも沈黙がきみをさらうときは

Then I hope it takes me too
僕も一緒にと願うよ

So brown eyes I hold you near
だから茶色い瞳の君よ きみを抱きよせる

Cause you’re the only song I want to hear
僕が聞いていたいのは 君という調べだけ

A melody softly soaring through my atmosphere
僕を包む空気を ふわりと舞うメロディだけ


Where soul meets body
心と体が重なる場所で


And I do believe it’s true
きっと本当のことさ

That there are roads left in both of our shoes
僕らの靴で進んでいける道があるんだ

But if the silence takes you
だけど沈黙がきみをさらうときは

Then I hope it takes me too
僕も連れ去ってくれたらいい


So brown eyes I hold you near
だから茶色い瞳の君よ きみを抱きよせるよ

Cause you’re the only song I want to hear
だって僕が聞いていたいのは きみという調べだけ

A melody softly soaring through my atmosphere
僕を包む空気を ふわりと舞うメロディだけ





『シベールの日曜日』(原題:Cybele ou les Dimanches de Ville d'Avray)

Posted by arnoldkillshot on 23.2011 映画タイトル:さ行 0 comments 0 trackback
見るたびに胸が締め付けられる思いがするのに、この映画を愛さずにはいられません。戦争で記憶を失った青年ピエールと、親に捨てられた少女シベールの孤独な魂が子どもの世界の純粋な愛で結ばれる――そこに子どもの頃のかけらを抱きつつも大人の無慈悲な現実で生きなければならない人間の救いと悲哀が見出されるからです。この映画を見終えた頃にはどうしようもなくやるせない悲しさを感じますが、一面に広がってはすぐ消えてしまう水の輪の中にある二人の家のように、二人の儚くも純粋な愛の中に、わたしたちのささやかな故郷を見出せると思います。


『シベールの日曜日』(原題:Cybele ou les Dimanches de Ville d'Avray)
1962年 フランス
監督:セルジュ・ブールギニョン
原作:ベルナール・エシャスリオー『ヴィル・ダヴレーの日曜日』
出演:ハーディ・クリューガー、パトリシア・ゴッジ、ニコール・クールセル 他

あらすじ:
戦争中、空軍のパイロットであったピエール(ハーディ・クリューガー)は、戦争で追った怪我と少女を誤って殺してしまったショックで記憶喪失となり、彼の看護婦であったマドレーヌ(ニコール・クールセル)の献身的な愛にもかかわらず沈鬱な日々を過ごしていた。ある夜ピエールは、父親によって無理やり寄宿学校に入れられる少女フランソワーズ(パトリシア・ゴッジ)と出会う。次の日曜日、彼女が気がかりで会いに行くと、日曜日には会いに行くと言っていた父親はやはり現れず、待ちぼうけだったフランソワーズを連れて外に出ていく。自分が捨てられたことにショックを受け、ピエールにすがりつくフランソワーズ。そんな彼女にピエールは、これから日曜日は彼女に会いに行くと約束する。
それ以来ピエールは約束通り日曜日になるとフランソワーズに会いに行き、湖のほとりで一緒に遊ぶようになる。無邪気で可憐なフランソワーズとの、親子のようでも恋人のようでも、また無垢な子供同士の友達でもあるような関係の中で、ピエールは生き生きとした感情を取り戻していくが、その一方で自分以外の者に彼女が関心を抱くと、子供相手でも大人げなく嫉妬して乱暴にふるまってしまうのだった。あるときフランソワーズは彼に、フランソワーズというのは本名ではないと打ち明ける。そして彼女の本当の名前は、街の高い屋根にある風見鶏を取ってきてくれたら教えてあげると無邪気に言うのだった。
そんな二人の関係を知らないマドレーヌは、ピエールが喜びを取り戻してきたことを喜ぶ。ある日、マドレーヌが知り合いの結婚式にピエールと出席すると約束してしまったために、ピエールは日曜日なのにフランソワーズに会いに行けず嫌々結婚式に引きずられていく。しかし、結婚式の食事でのわずらわしい時間と、その後出かけたカーニバルの騒々しさに耐えられなくなったピエールは騒動を起こしてしまう。その様子を偶然フランソワーズは見ていた。
日曜日に会いに来ずマドレーヌと一緒にいたことを責めて泣くフランソワーズに、ピエールはクリスマスは一緒に過ごすと約束をする。その一方で、マドレーヌはピエールとフランソワーズの関係に気付き始めていた。ピエールはフランソワーズと過ごすクリスマスのために喜々として準備をするが、周囲の人々は二人の関係に疑いを強めていき…

マーク・トウェイン『不思議な少年(原題:The Mysterious Stranger)』(中野好夫 訳/岩波文庫)

Posted by arnoldkillshot on 20.2011 本の紹介 0 comments 0 trackback
マーク・トウェイン『不思議な少年(原題:The Mysterious Stranger)』(中野好夫 訳/岩波文庫)を読みました。
16世紀のオーストリアの小さな村で、テオドール(わたし)、ニコラウス、セピの3人の少年はある日不思議な力を持つ美少年に出会います。サタンと名乗った彼は、その名とは裏腹に自分が天使であると言います。少年たちはサタンの不思議な力と抗いがたい魅力に惹かれて友達になりますが、人間とは違い良心を持たず悪を知らないサタンは、彼にとって虫けら同然の人間たちを容赦なく批判し、簡単に運命を操っていきます。サタンの不思議な力によって小さな村を取り巻く悪意や薄情さや人間の弱さが暴かれていき、さらに魔女狩りの恐怖などがこの村を取り巻き、取り返しのつかない悲惨な出来事が次々と起こっていきます。
少年たちと天使の友情という子どもらしいファンタジックな幕開けから一変して、サタンの気まぐれや人間自身の行いから次々と暴かれる人間の愚かさと残酷さに絶望を感じずにはいられません。そのタッチは笑ってしまうくらいの災難が次々と主人公たちに降りかかるヴォルテールの『カンディード』をどことなく思い出させます。読んでいくうちにやるせなさが募っていきますが、絶望と真正面から向き合っていくこの物語にはある種の不思議な力強さがあります。天使の視点を得られない人間は、人間の弱さと醜さの真っただ中でそれでも人間として生きていかなくてはならない、と感じさせられました。

引用は続きからどうぞ。

『ジョニー・ハンサム』(原題:Johnny Handsome)

Posted by arnoldkillshot on 19.2011 映画タイトル:さ行 0 comments 0 trackback
奇形者や怪物といった“異形の者”がテーマとなっている作品は、どんなものであれ観ずにはいられなくなってしまいます。それにミッキー・ロークが主演となればなおさらです。
この『ジョニー・ハンサム』はそんな異形の者の悲哀を、男くさい犯罪映画のテイストのなかで悲哀たっぷりに描いています。醜い容貌ゆえに犯罪に走るしかなかったジョニーは、文字通りハンサムな顔を手に入れて別人として新しい人生を生き始めます。まともな仕事も、これまで知らなかった女性の愛も手に入れて望ましいはずの生活でしたが、それでも彼は醜かった過去に帰らざるを得なくなります。どんなに痛みに充ちていても、偽りの自分より
醜くても本当の自分としてしか生きられない――そんな異形の者に生まれた悲哀を、そのまなざしにどこか悲しみの影をたたえたミッキー・ロークが演じています。

『ジョニー・ハンサム』(原題:Johnny Handsome)
1989年 アメリカ
監督:ウォルター・ヒル
原作:ジョン・ゴーディ『ジョニー・ハンサムの三つの世界』
音楽:ライ・クーダー
出演:ミッキー・ローク、モーガン・フリーマン、フォレスト・ウィテカー、エレン・バーキン、エリザベス・マクガヴァン、ランス・ヘンリクセン 他

あらすじ:
頭脳明晰な強盗ジョニー(ミッキー・ローク)は、その醜い容貌から“ジョニー・ハンサム”と周囲から嘲られ、心を許せるのはただ一人彼によくしてくれる兄貴分マイキーだけだった。ある日マイキーからの頼みで、ジョニーはレイフ(ランス・ヘンリクセン)とサニー(エレン・バーキン)らと共に強盗を計画する。金を奪うのには成功するが、レイフとサニーの裏切りによってマイキーは殺され、ジョニーは一人罪を着せられる。
ジョニーは刑務所に収監されるが、彼の姿を見かねたフィッシャー医師(フォレスト・ウィテカー)は彼に整形手術を施し、人生をやり直させようとする。新しい顔を手に入れ外の世界に出て行ったジョニーは順調に働き、職場の経理で働くドナ(エリザベス・マクガヴァン)とも恋人になる。別人としての充実した生活を手に入れたジョニーだったが、かつての醜い顔にもかかわらずよくしてくれたマイキーの無念をそのままにはしておけなかった。ジョニーはドナとの仲も振り切り、自分たちを裏切ったレイフとサニーへの復讐を決意し、素性を隠して彼らの前に現れる。そんな彼を、彼の醜いころからよく知っているドローンズ刑事(モーガン・フリーマン)が執拗に追い続ける。

埴谷雄高『死霊』第3巻

Posted by arnoldkillshot on 18.2011 本の紹介 0 comments 0 trackback
埴谷雄高『死霊』第3巻 第7章より

*********

……さて、ガリラヤ湖の大きな魚も、小さなチーナカ豆も、『死のなかの生』から自己脱出すべき胎児も、よく聞いてくれ。
 いまここに、われわれのすぐ傍らの間近い脇に一つの大きな精神病院があって、その古風な薄暗い建物の一室に二人の男が向きあっているとする。すると、いいかな、ひとりの精神科医の前に坐った殆んど同じ眼鼻立ちをもった顔つきをしたひとりの患者がこういうのだ。
 俺はここにはじめから長くいる精神科医だが、君は誰に対してもまことにおとなしく、しかもなかなかものごとの内部にまで及んで深く解った精神病患者だ。そこで、古参の精神科医としての俺は、君の病気を完全に癒し得る古今を通じて僅かたった一つしかない無二の療法をいま君にほどこすが、よーく聞いてくれ、いいかな、さて、その古今を通じてたったひとつしかない唯一無二の療法とは、君は「私とは何か」などと聞いてはならないのだ。その問いこそ、ついに治療しがたい君の長い長い永遠のとうてい到達不可能な渇望につぐ渇望の病気のまぎれもない根本原因となることにほかならぬからだ。
 おお、では、さて、どう問えば、精神病患者の君は、その永遠に治療しがたいところの精神の病を如何にしてついに療し得ることになるのかな。それは、またまた、深く心の奥にとめてよーく聞いてくれ。ほら、こうなのだ。いいかな、「私とは何か」となど問うのではなく、さてさて、君はついについにこう問わねばならぬのだ。
 「何で私であるのか。」と……
 おお、イエスに食われてイエスとなったガリラヤ湖の大きな魚よ、「説きおおせなかった」釈迦をこそ弾劾すべきであった小さなチーナカ豆よ、「死のなかの生」から生物史はじめて不毛の荒野の高い枯れた樹へと向って自ら這い出すべき胎児よ、聞いているかな。「私とは何か」と「何で私であるのか」との二つの問いは、互いを横に並べてみてみれば、ちらと眺めただけでも、一見、上から下まで、横にしても縦にしても、まったく同じ長さ、まったく同じかたちをしているようで、その実、その内包するところは、単一と無窮、無と存在ほどもの怖ろしいほど無限の幅の差で違っているのだ。
 おお、もう一度よーく聞いてくれ。君も、君達のすべても、いいかな、こうまず自らに問わねばならない。
 「何で私であるのか。」……と。
 もし、君が、「私とは何か」という愚かな問いにただひたすら無自覚無洞察に執着しつづけていれば、いいかな、ガリラヤ湖の大きな魚にとっては魚こそが万物の尺度で、小さなチーナカ豆にとっては植物こそが万物の尺度で、そしてイエスにとっては人間こそが万物の尺度で、さらになお、生と死と宇宙の理法のなかで「正覚」する釈迦をも越えてひたすら自己自身について問いに問いつづける極限の単独者にとっては、おお、いいかな、「自己」こそが万物の尺度となる「自己」こそが万物の尺度となってしまうのだ。そして、この自己が自己自身に向きあって万物の尺度となる「自己」こそ、取り戻しがたい薄暗い過誤の上にさらにより重い荷重をもったより怖ろしい永劫の過誤を積み重ねあげるところの何ものをもってしても動かしがたい単一無二のあまりに重すぎる愚かしい倨傲の礎石となってしまうのだ。
 ところで、「何で私であるのか」と問えば、おお、いいかな、果てしもない無限の転変につぐ無限の転変の果てしもない困難の巨大な集積のみがそこにあるものの、窮めに極め、辿りに辿り、貫きに貫きゆく薄暗い果ての向うの真暗黒の果てでついに、いまもなおこの俺のなかにありつづけるところのいわば「巨大な俺自身」たる「存在」にこそ直面することになるのだ!……


……おお、お前、即ち、一種独創的な発想と工夫に充ち充ちた自己探索者であった自殺者に、俺は深く同情している。お前は、「自己が自分自身と自己格闘する戦士の兜」の創出によって、あっは、ついに、お前自身を堅く捉え、そして、いいかな、そのお前自身なるものこそは、いまそこにいるお前より遥かに遥かに「巨大なもの」であるという「長く隠されてきた自分自身なるものの秘密の真実」をこそ思いもかけずついに発見したのだ。それどころか、お前は「お前の中にお前自身がいる」のではなく、おお、無限大の彼方から数知れぬ物質連鎖の苦悩と食物連鎖の悲哀の二つの絶えざる持続の芯として重ねに重ねた果て奇怪不気味に突出した凸凹性をもってしまったところの「無限大のお前自身」のいまなお続きに続いている無限巨大な持続性こそがそのいまのいまのつかのまの「お前」を創ったことをもついについについに発見したのだ。つまり、お前の「お前自身の自己発見」こそは、そのお前が如何にして創られたかの自己発見にもほかならなかったのだ。おお、そのお前の「自分自身」の発見こそは、思いもかけず、まさにほかならぬ「自己創造」の驚嘆すべき「発見」にこそほかならなかったのだ。おお、解るかな。お前がついに果敢に掴まえたところの「自分自身」こそは、あっは、いいかな、「その外面をもその見せかけの存在形式も」絶えず「いまのいまだけの自己」なるものとして転変、変貌させながら《無限大》に持続しつづけてきたところの《自分自身》にほかならなかったのだ。そして、お前のなかにお前自身がいるのではなく、無限大の苦悩と悲哀を内包しながら持続しつづけてきたところの「無限大のお前自身」のなかにこそ、いま、そこにいるまぎれもない「たったひとりきりしかいないそのお前」がいるのだという逆発見は、如何に素晴らしく、また、如何に怖ろしい発見であることだろう。あっは、発見が同時に創造となったところの「自分自身による自己の自己発見と自己創造」!


「無出現の思索者」の、無限の空間と永劫の時間に向っての果てることもなき自覚と新しい抵抗への出発へ向うところの自己昇華の三つの定言
①すべて出現したものは、その出現自体の理法に従って、それ自体と違ったところの或る何物かへ向って、必ず変革されねばならぬ。
②これまでもたらされた全宇宙史は、すべて、誤謬の宇宙史にほかならぬ。
③すべてを捨て去り得ても、「満たされざる魂」が求めに求め、さらに求めつづける標的たる自分でない自分に絶えずなろうとしつづけるところの無限大の自由だけはついについに捨て去り得ない。

*********

これ以外にもたくさん衝撃的なところがあったのですが、とりあえずこれだけ引用します。
あとほかにドストエフスキーの『白痴』の大ファンの私としては、「「物心つかぬ裡に妾にされてしまっていた」女性の深い自覚による不可避の悲劇」と書かれて引き合いに出されていたのは嬉しかったです。


ヘンリー・ジェイムズ『デイジー・ミラー/ねじの回転(Daisy Miller/The Turn Of The Screw)』(岩波文庫・行方昭夫訳)

Posted by arnoldkillshot on 15.2011 本の紹介 0 comments 0 trackback
ヘンリー・ジェイムズ『デイジー・ミラー/ねじの回転』(岩波文庫・行方昭夫訳)を読みました。

『デイジー・ミラー』は普段まったく読まないタイプの小説なのですが、なんだかとても心に残りました。ヨーロッパの美しい舞台で展開される、無邪気で遊び好きなアメリカ娘のデイジーと、彼女の奔放さに振り回されながら困惑するウインターボーン青年の関係は19世紀の小説ながら現代に通じるポップな切なさを感じました。ヨーロッパの古い価値観から見れば軽薄で下品に見えるデイジーは、蓮っ葉な女性では決してなく、ただただ若い無垢な心のままに無邪気に振舞っていただけで、誰もその無垢な魂自体を見ることができなかったという悲しさが、読み終わった後も尾を引きます。個人的な見解ですが、映画化するなら先日紹介した『(500)日のサマー』のマーク・ウェブに撮らせたらぴったりなんじゃないかな、と思いました。

『ねじの回転』は、子どもを正しく教育しようとする大人と、彼らが入り込めない子どもの無邪気かつ不気味な世界の対立を幽霊を媒介にして描いたとても巧妙な心理小説だと感じました。若い女性の家庭教師は、天使のように愛らしい幼い兄妹マイルズとフローラの教育を任されますが、その屋敷で幽霊を見ます。そしてこの屋敷にまつわる以前の家庭教師と下男クイントの不純な関係と二人の奇妙な死を知り、子どもたちが彼らの幽霊に魅入られていると信じるようになるのですが、この幽霊がはたして本当に実在するのか(幽霊出現説)、それとも仕事のプレッシャーや期待、そして前任者の忌わしい結末で追い詰められた家庭教師の妄想なのか(女家庭教師妄想説)など、色々な解釈があるようです。
わたしの解釈ではその中間で、幽霊は家庭教師だけでなく子どもにも見えているけれど、見ている“領域”がそれぞれ違って、子どもたちにとっては誰も入り込めない秘密の世界の仲間として幽霊を見ているけれど、彼らを教育する立場にある家庭教師は、だれにも頼れない不安やプレッシャーを幽霊に帰することで幽霊を悪しきものとして見ている、と感じました。そして家庭教師の目から見える幽霊は子どもを悪の道へ引きずる恐ろしい存在と見えるのですが、それは実は彼女自身を映し出すものなのです。彼女は幽霊が子どもと関係していると知っていくうちに、彼らを守ろうとしてヒステリックになっていきます。幽霊という現象は大人の理解できない子どもの領域を象徴するもので、だからこそ家庭教師はそれを不気味に感じ、大人に理解できないものはすべて悪しきものとみなして排除しようとします。しかしどんなに不気味に見えてもそれこそ子どもの本質であり、大人にその秘密の世界を暴かれれば子どもたちの魂は脅かされます。そうして家庭教師にとって幽霊の存在が恐ろしくなるに伴い、彼女自身も子どもたちにとって恐ろしい存在となるのです。だからこそあの結末になったのではないか、とわたしは思います。

いつものように以下に心に残った部分を引用します。

『(500)日のサマー』(原題:(500)Days Of Summer)

Posted by arnoldkillshot on 14.2011 映画タイトル:か行 0 comments 0 trackback
幸せの青い鳥のように、「運命の人」は現れた――そして恋のナゾを残して飛んで行った。

『(500)日のサマー』(原題:(500)Days Of Summer)
2009年 アメリカ
監督:マーク・ウェブ
脚本:スコット・ノイスタッター、マイケル・H・ウェバー
出演:ジョセフ・ゴードン=レヴィット、ゾーイー・デシャネル、ジェフリー・エアンド、マシュー・グレイ・ガブラー、クロエ=グレース・モレッツ 他

あらすじ:
小さなグリーティングカード会社で働く夢みがちな青年トム(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)は、アシスタントとして入社したサマー(ゾーイー・デシャネル)に一目ぼれし、“運命の人”だと感じる。トムは彼女の一挙一動に一喜一憂しながらチャンスをうかがうが、会社のカラオケ大会でついに接近する。しかし「愛なんて絵空事」と考えるサマーは、トムの気持ちを受け止めつつも“友達”として付き合おうと言う。
とびきりキュートで抜群のセンスを持ち、どこかエキセントリックなサマーの魅力にトムはどっぷりはまっていき、毎日が素晴らしく仕事も絶好調。しかし胸躍るデートやセックスまで至る“友達”とは思えない関係の中で、トムはもどかしく思いながらもサマーの掴みどころのない態度の前に一歩を踏み出せない。
そんなときサマーから「もう会わないほうがいい」と言われ、失恋のショックのどん底に陥るトム。心は荒み仕事も絶不調だったが、そんなとき同僚の結婚式でサマーに再会する。
キュートで不思議な女の子サマーとの500日のそれぞれの日々を交錯しながら、トムは少しずつ変化していく…

『ローズ・イン・タイドランド』(原題:Tideland)

Posted by arnoldkillshot on 11.2011 映画タイトル:ら行 0 comments 0 trackback
大人は陶酔するのに酒やドラッグを必要とする。だけど子どもだったころ、そんなものは必要なしに自分の想像力だけで世界に酔いしれることができた――そんな感覚を思い出させてくれるのがこの『ローズ・イン・タイドランド』です。もう大好きで大好きで、何度も見た映画です。主人公の少女ジェライザ=ローズの生き生きとした無邪気な想像力と好奇心、そんな彼女の感性に満たされたグロテスクな現実……何もかもが素晴らしく、この映画の2時間はたっぷり子どもの感性を思い出し陶酔することができます。干潟(タイドランド)を満潮が満たしていくように、残酷な世界を彼女の幻想が満たして不思議の国にしてしまうと、わたしたちもジェライザ=ローズとともに子どもの心でそのグロテスクな遊び場を無邪気に冒険する気になってしまうのです。


『ローズ・イン・タイドランド』(原題:Tideland)
2005年 イギリス、カナダ
監督:テリー・ギリアム
原作:ミッチ・カリン『タイドランド』
出演:ジョデル・フェルランド、ジェフ・ブリッジス、ブレンダン・フレッチャー、ジャネット・マクティア、ジェニファー・ティリー

あらすじ:
落ちぶれたロックスターの父ノア(ジェフ・ブリッジス)とチョコばかり食べて堕落しきった母(ジェニファー・ティリー)というドラッグ漬けの両親のもとに生まれた少女ジェライザ・ローズ(ジョデル・フェルランド)は、両親の注射の世話をしたりしながら、『不思議の国のアリス』や父の語るユトランドへの旅を夢見ていた。そんなとき、母がドラッグによって突然死んでしまう。父はジェライザ=ローズを連れ、死んだ彼の母が住んでいたテキサスの家へ戻る。
一面の黄金の草原が広がる中にぽつんと立ったボロボロの家にたどり着いた二人。ジェライザ=ローズは4つの頭だけのバービー人形を友達に、家や草原のなかを冒険する。しかし、“短い休暇”と称してドラッグを打った父は、動かなくなっていた…
どんどん腐っていく父の死体、幽霊のような不気味な女・デル(ジャネット・マクティア)との出会い、そして障害のある彼女の弟・ディキンズとの恋―たった一人冒険するジェライザ=ローズは、そんなとんでもない外の現実も幻想で満たし、生き生きと戯れる。しかし孤独と空腹と好奇心に突き動かされる彼女は、まるでウサギ穴に落ちるアリスのようにさらに恐ろしい現実のなかに入り込んでいく…

ジャック・ケルアック『路上(原題:On The Road)』(福田実 訳)より

Posted by arnoldkillshot on 10.2011 本の紹介 0 comments 0 trackback
ジャック・ケルアックの『路上(原題:On The Road)』(福田実 訳)より引用です。
主人公サル・パラダイスが、破天荒で無邪気な青年ディーン・モリアーティに振り回されながらアメリカ中を旅し、様々な仲間や場所を通り過ぎていく青春の旅の物語。
1部では様々な失敗やトラブルでディーンに追いつけなかったサルが、2部ではようやくディーンとの旅が実現して、彼の恋人メリールウや様々な仲間たちと出会いながら冒険し、3部ではボロボロになってしまったディーンをサルが支えながら二人でサルの故郷を目指し、4部ではすべてが真新しいメキシコへの旅が描かれ最後の5部へとつながっていきます。この1部から5部までのそれぞれの旅の中で、「ぼく」(サル)と「ぼく」の憧れであり感性の導き手であり魂の結びついた友であるディーンとの関係が変化していくところが感慨深いです。
「あれを見ろよ!」とあらゆるものに眼を惹かれ、「そうだ、そうだ、そうだ!」と叫びながらすべてを肯定し感激するディーンのいかれた純粋さと自由さに、主人公サルと同様に惹かれずにはいられません。

わたしが読んだのは旧訳ですが、最近は『オン・ザ・ロード』というタイトルで新訳も出たようです。また現在映画化が進んでおり、監督は『モーターサイクル・ダイアリーズ』のウォルター・サレス。キャストは、Joy Divisionのボーカル、イアン・カーティスの伝記映画『コントロール』でイアンを演じたサム・ライリーがサルを演じ、ディーン役は『トロン・レガシー』のギャレット・ヘドランド、メリールウはクリステン・スチュアート(『イントゥ・ザ・ワイルド』での役柄のイメージでしょうか?)、カミール役はキルスティン・ダンスト…など。そしてオールド・ブル・リー役のヴィゴ・モーテンセンは個人的にはイメージにぴったりだと思います。

引用は長いので続きからどうぞ。

海外記事翻訳:Genius Next Door-シド・バレットの隣人デヴィッド・ソアによる回顧録(2006年12月3日のMail On Sundayより)

Posted by arnoldkillshot on 07.2011 海外記事翻訳 1 comments 0 trackback
シド・バレットの隣人であったデヴィッド・ソアによる回顧録(2006年12月3日のMail On Sundayの記事)を翻訳しました。翻訳はこちらを参考にしました。誤訳などございましたらぜひコメントなどでご指摘ください。
長いので続きからどうぞ。

『インベージョン』(原題:Invasion)

Posted by arnoldkillshot on 05.2011 ホラー 1 comments 0 trackback
“ボディ・スナッチャーズ”、すなわちジャック・フィニィの『盗まれた街』を、『es』『ヒトラー 最後の12日間』のオリヴァー・ヒルシュビーゲル監督が映画化したのがこの『インベージョン』です。非人間性が人間を乗っ取るという原作のテーマと、環境が人間に与える影響を描きつづけたヒルシュビーゲル監督の作家性が見事にマッチしており、リアルな描写とこの作品の普遍的なテーマによって、現実のわたしたちに非人間性の危機を突きつけます。知らず知らずのうちに自我を乗っ取るウィルスの危機は、心ないものにあふれた現実に生きているわたしたちが現に置かれている自我の危機を見事に表象しているのです。

『インベージョン』(原題:Invasion)
2007年 アメリカ
監督:オリヴァー・ヒルシュビーゲル
原作:ジャック・フィニィ『盗まれた街』
出演:ニコール・キッドマン、ダニエル・クレイグ、ジャクソン・ボンド、ジェフリー・ライト、ジェレミー・ノーサム

あらすじ:
精神科医のキャロル(ニコール・キッドマン)は息子オリバー(ジェイソン・ボンド)と二人暮らし。数年前にアメリカ政府の科学者である夫のタッカー(ジェレミー・ノーサム)と別れたが、今は医者のベン(ダニエル・クレイグ)と親しい関係にあった。しかし、スペースシャトルが墜落し、その破片から宇宙の未知のウィルスが発見されて以来、アメリカ中で異変が起き始める。「夫が夫ではない」「子どもが別人のようだ」―キャロルの患者ウェンディもその一人だった。その一方で致死的なインフルエンザが猛威をふるっているという報道がなされ、政府はすぐさまワクチンの投与を国全体に行う。
次第に多くの人々が無表情になり奇妙に同じような行動をとるようになる。その中で何人かは狂気に陥ったようになり人々から逃げ出そうとするが捕えられていく。それはキャロルの周囲でも起りはじめる。
キャロルはベンとその同僚の科学者ガレアーノ(ジェフリー・ライト)に、彼女が見つけた奇妙な膜状のサンプルの調査を依頼する―それは感染した人間が眠っているうちに遺伝子を書き換え、その人間になり変ってしまう知的生命体だった。前の夫タッカーに預けていたオリバーを救おうと駆け出すキャロルだったが、すでにウィルスに乗っ取られたタッカーにウィルスをうつされてしまう。間一髪で逃れたキャロルは、なり変られた人間から逃れ、眠りと戦いながら息子オリバーを救うべく、ベンたちとともに行動に出る…

『マイ・サマー・オブ・ラブ』(原題:My Summer Of Love)

Posted by arnoldkillshot on 03.2011 映画タイトル:ま行 2 comments 0 trackback
この『マイ・サマー・オブ・ラブ』は何度も観たくなる映画の一つで、観るたびにこの映画の魅力に惹き付けられます。ヨークシャーの素朴で豊かな景色、そして友情と恋が混ざり合った二人の少女の絆、そしてその中で目覚めていく“本物”の自分―みずみずしさと妖しさをたたえたこの映画の魅力、そしてこの作品で実力を認められたエミリー・ブラントの凛々しい美しさは必見の価値ありだと思います。


『マイ・サマー・オブ・ラブ』(原題:My Summer Of Love)
2004年 イギリス
監督:パヴェル・パヴリコフスキー
原作:ヘレン・クロス
出演:エミリー・ブラント、ナタリー・プレス、パディ・コンシダイン

あらすじ:
ヨークシャーのとある田舎町。かつてパブだった家で兄と暮らす少女モナ(ナタリー・プレス)は夏のある日、寄宿学校から帰ってきた美しい少女タムジン(エミリー・ブラント)と出会う。田舎の単調な暮らしの中で学もなくありきたりの人生を送るモナと、裕福な家に育ち洗練されたタムジンとは正反対の存在だったが、ふたりは惹かれあい親友となる。出所してから偽善的なキリスト教徒になってしまった兄フィル(パディ・コンシダイン)のために家にも居場所をなくし、男にもあっさり捨てられたモナは、凛々しく聡明なタムジンの中の、冷え切った両親の仲や姉セイディーの死による孤独や悲しみに共感し、ふたりは少女らしい戯れと恋人のような愛のなかで互いを求め、それぞれ新たな自分を目覚めさせていく。そんな中、タムジンはモナの兄フィルに興味を示し始めるが…

ヘルマン・ヘッセ『知と愛(Narziss Und Goldmund)』(高橋健二 訳)より

Posted by arnoldkillshot on 01.2011 本の紹介 0 comments 0 trackback
ヘルマン・ヘッセの『知と愛(原題:Narziss Und Goldmund)』より心に残った部分の引用です。
マリアブロン修道院に入った少年ゴルトムントと若き学者ナルチスは、互いに強く惹かれあい無二の親友となります。父の言いつけどおり僧になろうと願うゴルトムントですが、ナルチスは彼のうちに秘められた豊かな感性とゴルトムントの失っていた母のイメージを見出し、ゴルトムントが彼自身の真の道を生きるように導きます。
そして母の面影と彼女から譲り受けた感性に目覚めたゴルトムントは修道院を出て、女から女へ、森から村へと渡り歩く旅人となります。失われる愛や死の移ろいの旅のなかでゴルトムントは、彼を導く母の大いなるイメージや彼が愛した女性たち、そして片時も忘れることのなかった親友ナルチスの姿を、永遠に失われることのない形にしようとする芸術家としての天分に目覚めていきます。
引用が長いので続きからどうぞ。


The National-Terrible Love

Posted by arnoldkillshot on 01.2011 洋楽歌詞和訳 0 comments 0 trackback
The Nationalのアルバム"High Violet"より、1曲目の"Terrible Love"を紹介します。歌詞はこちらを元に翻訳しました。

The National-Terrible Love
It's a terrible love
それは恐るべき愛

That I'm walking with spiders
蜘蛛たちを道連れにその道を行く

It's a terrible love that I'm walking with
共に歩むのは恐るべき愛

It's a terrible love
恐るべき愛の道を

That I'm walking with spiders
蜘蛛たちと連れ立って進む

It's a terrible love that I'm walking with
恐るべき愛こそわが道連れ

It's quiet company
それは寡黙な同行者

It's quiet company
静かなる友


It's a terrible love
それは恐るべき愛

And I'm walking with spiders
小さな蜘蛛たちを道連れにぼくは進む

It's a terrible love that I'm walking with
ともに歩むのは恐るべき愛

It's a terrible love
それは恐るべき愛の道

And I'm walking with spiders
その道を蜘蛛たちとともに進んでいく

It's a terrible love that I'm walking with
恐るべき愛とともに歩んでいく

It's quiet company
それは言葉少なな道連れ

It's quiet company
物言わぬ友

It's quiet company
語る言葉もなく共に進んでいく


And I can't fall asleep Without a little help
小さな助けを借りなければ 眠りにつくこともできない

It takes awhile To settle down
心を静めるには つかの間の時が必要なのだ

My ship of hopes
ぼくの希望の方舟は

Wait til the past leaks out
過ぎた日々が流れ去るのを待ち続けている


It takes an ocean not to break
海原が引き裂かれないように


Company
わが友よ

It's quite a company
多くを語らぬ道連れよ

It's quiet company
沈黙を守る友よ


But I won't follow you
だがきみとの道を

Into the rabbit hole
暗いウサギ穴へまで共にすることはあるまい

I said I would
ついてゆこうとかつては言った

But then I saw
だがぼくは見たのだ

The ship of woes
嘆きの船が

They didn't want me to
ぼくを拒んでいるのを


It's a terrible love
それは恐るべき愛

And I'm walking with spiders
ぼくの道連れは小さな蜘蛛たち

It's a terrible love that I'm walking here
ぼくとともに歩むのは恐るべき愛

It's a terrible love
それは恐るべき愛

That I'm walking with spiders
蜘蛛たちを道連れに進んでいく道

It's a terrible love that I'm walking here
恐るべき愛の道を今ぼくは歩んでいく


It takes an ocean not to break
海原が引き裂かれるのをその愛が守るだろう


個人的な解釈ですが、この歌詞はヘルマン・ヘッセの世界観とすごくシンクロするように思えます。なのでヘッセの小説を読むときはいつもThe NationalがBGMになっています。このビデオの森の木々と光と古ぼけた小屋も、The Nationalの曲がもたらす情景とヘッセの小説の"旅"のテーマにとてもよく合っていると思います。
The National High
  

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Author:arnoldkillshot
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私Arnold Killshotが好きな映画、音楽、本について紹介していくブログです。
主なコンテンツは
①劇場・DVDで観賞した映画のレビュー(主に洋画、ホラー映画)
②洋楽の歌詞の翻訳とビデオの紹介
③読んだ本の紹介
④海外記事の翻訳(新旧問わず、インタビュー記事など)
などです。コンテンツは徐々に増えていくかもしれません。

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