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埴谷雄高『死霊』第3巻

Posted by arnoldkillshot on 18.2011 本の紹介 0 comments 0 trackback
埴谷雄高『死霊』第3巻 第7章より

*********

……さて、ガリラヤ湖の大きな魚も、小さなチーナカ豆も、『死のなかの生』から自己脱出すべき胎児も、よく聞いてくれ。
 いまここに、われわれのすぐ傍らの間近い脇に一つの大きな精神病院があって、その古風な薄暗い建物の一室に二人の男が向きあっているとする。すると、いいかな、ひとりの精神科医の前に坐った殆んど同じ眼鼻立ちをもった顔つきをしたひとりの患者がこういうのだ。
 俺はここにはじめから長くいる精神科医だが、君は誰に対してもまことにおとなしく、しかもなかなかものごとの内部にまで及んで深く解った精神病患者だ。そこで、古参の精神科医としての俺は、君の病気を完全に癒し得る古今を通じて僅かたった一つしかない無二の療法をいま君にほどこすが、よーく聞いてくれ、いいかな、さて、その古今を通じてたったひとつしかない唯一無二の療法とは、君は「私とは何か」などと聞いてはならないのだ。その問いこそ、ついに治療しがたい君の長い長い永遠のとうてい到達不可能な渇望につぐ渇望の病気のまぎれもない根本原因となることにほかならぬからだ。
 おお、では、さて、どう問えば、精神病患者の君は、その永遠に治療しがたいところの精神の病を如何にしてついに療し得ることになるのかな。それは、またまた、深く心の奥にとめてよーく聞いてくれ。ほら、こうなのだ。いいかな、「私とは何か」となど問うのではなく、さてさて、君はついについにこう問わねばならぬのだ。
 「何で私であるのか。」と……
 おお、イエスに食われてイエスとなったガリラヤ湖の大きな魚よ、「説きおおせなかった」釈迦をこそ弾劾すべきであった小さなチーナカ豆よ、「死のなかの生」から生物史はじめて不毛の荒野の高い枯れた樹へと向って自ら這い出すべき胎児よ、聞いているかな。「私とは何か」と「何で私であるのか」との二つの問いは、互いを横に並べてみてみれば、ちらと眺めただけでも、一見、上から下まで、横にしても縦にしても、まったく同じ長さ、まったく同じかたちをしているようで、その実、その内包するところは、単一と無窮、無と存在ほどもの怖ろしいほど無限の幅の差で違っているのだ。
 おお、もう一度よーく聞いてくれ。君も、君達のすべても、いいかな、こうまず自らに問わねばならない。
 「何で私であるのか。」……と。
 もし、君が、「私とは何か」という愚かな問いにただひたすら無自覚無洞察に執着しつづけていれば、いいかな、ガリラヤ湖の大きな魚にとっては魚こそが万物の尺度で、小さなチーナカ豆にとっては植物こそが万物の尺度で、そしてイエスにとっては人間こそが万物の尺度で、さらになお、生と死と宇宙の理法のなかで「正覚」する釈迦をも越えてひたすら自己自身について問いに問いつづける極限の単独者にとっては、おお、いいかな、「自己」こそが万物の尺度となる「自己」こそが万物の尺度となってしまうのだ。そして、この自己が自己自身に向きあって万物の尺度となる「自己」こそ、取り戻しがたい薄暗い過誤の上にさらにより重い荷重をもったより怖ろしい永劫の過誤を積み重ねあげるところの何ものをもってしても動かしがたい単一無二のあまりに重すぎる愚かしい倨傲の礎石となってしまうのだ。
 ところで、「何で私であるのか」と問えば、おお、いいかな、果てしもない無限の転変につぐ無限の転変の果てしもない困難の巨大な集積のみがそこにあるものの、窮めに極め、辿りに辿り、貫きに貫きゆく薄暗い果ての向うの真暗黒の果てでついに、いまもなおこの俺のなかにありつづけるところのいわば「巨大な俺自身」たる「存在」にこそ直面することになるのだ!……


……おお、お前、即ち、一種独創的な発想と工夫に充ち充ちた自己探索者であった自殺者に、俺は深く同情している。お前は、「自己が自分自身と自己格闘する戦士の兜」の創出によって、あっは、ついに、お前自身を堅く捉え、そして、いいかな、そのお前自身なるものこそは、いまそこにいるお前より遥かに遥かに「巨大なもの」であるという「長く隠されてきた自分自身なるものの秘密の真実」をこそ思いもかけずついに発見したのだ。それどころか、お前は「お前の中にお前自身がいる」のではなく、おお、無限大の彼方から数知れぬ物質連鎖の苦悩と食物連鎖の悲哀の二つの絶えざる持続の芯として重ねに重ねた果て奇怪不気味に突出した凸凹性をもってしまったところの「無限大のお前自身」のいまなお続きに続いている無限巨大な持続性こそがそのいまのいまのつかのまの「お前」を創ったことをもついについについに発見したのだ。つまり、お前の「お前自身の自己発見」こそは、そのお前が如何にして創られたかの自己発見にもほかならなかったのだ。おお、そのお前の「自分自身」の発見こそは、思いもかけず、まさにほかならぬ「自己創造」の驚嘆すべき「発見」にこそほかならなかったのだ。おお、解るかな。お前がついに果敢に掴まえたところの「自分自身」こそは、あっは、いいかな、「その外面をもその見せかけの存在形式も」絶えず「いまのいまだけの自己」なるものとして転変、変貌させながら《無限大》に持続しつづけてきたところの《自分自身》にほかならなかったのだ。そして、お前のなかにお前自身がいるのではなく、無限大の苦悩と悲哀を内包しながら持続しつづけてきたところの「無限大のお前自身」のなかにこそ、いま、そこにいるまぎれもない「たったひとりきりしかいないそのお前」がいるのだという逆発見は、如何に素晴らしく、また、如何に怖ろしい発見であることだろう。あっは、発見が同時に創造となったところの「自分自身による自己の自己発見と自己創造」!


「無出現の思索者」の、無限の空間と永劫の時間に向っての果てることもなき自覚と新しい抵抗への出発へ向うところの自己昇華の三つの定言
①すべて出現したものは、その出現自体の理法に従って、それ自体と違ったところの或る何物かへ向って、必ず変革されねばならぬ。
②これまでもたらされた全宇宙史は、すべて、誤謬の宇宙史にほかならぬ。
③すべてを捨て去り得ても、「満たされざる魂」が求めに求め、さらに求めつづける標的たる自分でない自分に絶えずなろうとしつづけるところの無限大の自由だけはついについに捨て去り得ない。

*********

これ以外にもたくさん衝撃的なところがあったのですが、とりあえずこれだけ引用します。
あとほかにドストエフスキーの『白痴』の大ファンの私としては、「「物心つかぬ裡に妾にされてしまっていた」女性の深い自覚による不可避の悲劇」と書かれて引き合いに出されていたのは嬉しかったです。


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埴谷雄高『死霊』第4章より

Posted by arnoldkillshot on 28.2011 本の紹介 0 comments 0 trackback
埴谷雄高『死霊』第4章より引用です。長い部分なのでところどころ省略して紹介します。

*********

――いまいわれた理由は、二つとも、陋劣です。
――陋劣ですって……?
――そう、指をしゃぶりはじめるぐらいまで成長した赤ん坊はみな陋劣になっているといって好いと、僕は思ってます。
――そんな赤ちゃんが……どうして陋劣なのでしょう?
――それは貴方もこころの何処かで気づいてる筈です。おむつを換えられるまで泣きやまない赤ん坊は、もはやその要求が何処ではたされるか知ってるんです。まだ赤ん坊のときから、こうした習慣に僕達はどれほど慣らされてきたことだろう。それは僕達に一つの愚かしい自己瞞着の生きどまりを教える。たとえ無意識理にせよ、欲望がそこではたされる一つの傲慢な行きどまりを教えるんです。そうだ。すると、そこに起るのはもはやたしかに陋劣に繰り返される種類の欲望ですよ。僕は風車をまわしてみせる玩具を前にして寝ている赤ん坊を見ていたことがあるが、その赤ん坊はその眼で……まだ顔も廻せないほどの幼さなのに、その眼を微妙に動かして、風車を廻してみせろと要求するんです。もしそうしなかったら、どうだろう。やがては手足を振って泣き出すにきまってるのです。そして、その泣き方はもはや違っている……それは、陋劣な泣き方です。
――いえ、その赤ちゃんは淋しいのです。
――いや、淋しいのはそれよりずっと前だったのです。指をしゃぶって、手足を動かすことを知りはじめた赤ん坊は、もはや知ってしまったのですよ。おむつは換えられ、乳は与えられるということを。そして――それから風車は廻されなければならないんです。

…………

――そうでしょうか。僕に言わせれば、ほんとうは……母親はより陋劣です。
 と、三輪与志は暗くつけ加えた。
――母親が……?
――そう、母親が、です。
――いいえ与志さん、それは間違ってますわ。
――いや、母親はいったい貴方が云ったとおりにするものだろうか、それは逆です。
――逆って、何が逆なのですの?
――その顔を眺めて、抱き上げ、そして泣かせないようにすること。
――いいえ、与志さん、それはあらゆる母親がしてきたことです!
 と、相手の肩へ手をかけているのも忘れてしまったふうに尾木恒子は叫んだ。三輪与志の肩はゆらりと揺れた。
――いや、それは……貴方のようなまだ母親になっていないものだけが、やってきたことです。そうです。僕は疑う。ひとたび母親になればどうしてあのような冷酷な眼になれるだろうかと。そのことは……ひとの子をひとりの母親の傍らで泣かせてみれば、すぐ解るものです。もしそばに誰もいなければ、決してあやしてみせもしないのです。もし真に心底から冷酷な眼があるとすれば、ひとの赤ん坊が泣いている傍らにいるひとりの母親の眼だろうと、僕は信じているくらいです。そうですよ。もし貴方がそのままのかたちで母親になれたら……そうすれば、すべてが貴方の云った通りになれるでしょう。だが、ひとりの母親がその泣き声で飛び立つのは、実際は、自身の赤ん坊だけにかぎられている。そして……指をしゃぶって泣いている赤ん坊は、同じ感触、同じ手つき、同じあやし声でおむつを換えられ、抱きあげられ、そして、この世の陋劣に慣らされてしまうのです。

…………

――おお、思いちがえてはいけない。僕は赤ん坊をきらっているんではないんです。
 と、三輪与志は執拗に問いつづける尾木恒子を遮った。
――僕の前にひとりの赤ん坊がいる。それはまだ生れたばかりで目も見えずその手足も十分に動かせないでいるひとりの赤ん坊だ。それは数億年向うにある恒星とすっかり同じように凝っとしている。そうなのです。僕がいうのは、母親のあやし方に慣れてこの世の陋劣な何かを知ってしまった赤ん坊ではないんです。そうではない。それは、そこに横たわって自身のなかに凝っとしている。そして、そんな赤ん坊が……泣きはじめるんです。それは味わいつくされねばならない。
――与志さん、もういちど聞きますけれど……何故?
――それが唯一の起動力だから。
 寄せ合った魂と魂とでひっそり囁きあっているように三輪与志はつづけた。
――ときどき僕はこう考える。神は六日間でこの世界を見事にこしらえてしまったが、何処かに非常に間のぬけただらしのない神がひとりいて、何もないところから何かをこしらえあげようと自分なりの仕事にとりかかったのですね。そして、彼は彼なりに非常な果てもないほどの努力をはらったが、さっぱり何も出来上ってこないんです。だが、彼はとにかく無いところから創りだすという方式をどうしても捨てなかった。どんなに苦しくなっても、何処からか出来合いのものをもってこようとしなかったのですね。彼は苦しかった。どうにも持ちきれぬほど苦しかった。そして、彼は、或る日、緑の園のなかをさまよっているとき、一つの泣き声を聞いたんですよ。彼はその場に立ち止ってしまった。そこに根を生やして動かぬほどじっと立ちどまってしまったんです。解りますか。そのとき、聞えてきたのは、一つの赤ん坊の泣き声だったんです。まだ生れたばかりでまだ手足も動かせない一つのものの物悲しい泣き声が、ね。彼はその場にとまっていた。恐らくどのくらいの時間がたったか解らない。神の国の話だから、僕達の数億年はそこでは一秒にも足りないのでしょう。すると、彼はやがて何かを決意した物悲しい顔をして……やはりあの勤勉な神と同じように粘土をとってきたのですよ。ただ異っているところはその粘土で最初からひとのかたちをこねあげたのではなかった。彼はその粘土を大きく延ばすと、その真んなかにその赤ん坊の泣き声を封じこんで、いきなりまるめてしまったんです。恐らく彼はそうするより仕方がなかった。それ以外の何がこのだらしない神に出来たろう。僕にはそれが解る。そして、彼がその粘土を前にしてぼそぼそかきくどいていたことまではっきり解るような気がするんです。恐らく彼は苦しげに息をきらしてこう云ったのだろう。その泣きあげる力だけで……生と存在の重さを量れ、と。
 底もない深淵の奥から湧きのぼるような深い溜息が、不意と真近かから聞えた。
 尾木恒子は息切れするように苦しそうに囁いた。
――そして、それから……?
――それから……いまだに泣きつづけているんです。

*********

生まれたばかりの赤ん坊の泣き声って、どこかとても絶望的な響きがありますよね。人間はいつしか母親の手によって世の中に慣らされて、それを忘れてしまうんですね。行きつく先は果てもない厚顔無恥と自己欺瞞。人間はそこから目を覚ますことができるんでしょうか。

埴谷雄高『死霊』 第一章より

Posted by arnoldkillshot on 20.2011 本の紹介 0 comments 0 trackback
埴谷雄高『死霊』の第一章からの引用です。以下は登場人物の一人・首猛夫のセリフの一部なのですが、長いので見やすいように改行してあります。

*********

――この世に人間しかいない!それは明白単純だ。だが、出来れば――呪文のように日に一度はそうとなえてみるべきですよ。何故って……神秘的な事物や僕たちの振れ得ざる法則が、何処かの中空にぶら下がっていると、僕達は忽ち考えたがるんですからね。ところで、勿論、哀れな裏長屋から官邸に至るまで――赤ん坊と生まれてはじめて目を見開いた代物しかいやしないんです。僕が手ぶらで入ってゆくと――鹿爪らしく、厳しげに、また、哀れっぽく眺めているが、蟇のように頭を擡げてぐっと睨めば、睨み返すか、それとも、伏目になるかそのどちらかだ。あっは!この世に人間しかいない――これこそ、三年かかる仕事を僕が三日でやってのけられる理由です。
ふむ、僕は矢場と並んで闇の前に立っていたとき、このことをはっきり悟ったのだ。そしてそのためには、まず、眼をぐっと見開いた睨みを収斂しなければならないんです。森の小道や叢を丹念に覗き歩けば、必ず二三匹の蛇に出会えるが――鎌首をもたげて凝っと眺めている相手と、まあ、少なくとも五分間はにらみ合う必要がある。おお、決して伏目になってはならないんですよ。そして、有無をいわせぬ応用、つまり、強者の視線を会得出来れば――ちょっ!相手の視線に触れると、内気に俯向く小娘など、三日でやれることを三年もほっておく奴らに任せておけばよいと、心から納得出来る筈です。
だが、はじめから鎌首を垂れてするすると逃げ出しかける相手には――まあ、こんなふうに閉めかけた扉へ素早く片足を差し挟んでおく。閉めかけた胸の扉へちょっと風を通すんです。相手の心へ絶えず片足かけておくこの方法は、ところで、その維持がなかなか難しい。というのは、相手がこちらへ懐く嫌悪感――おお、それは必ず懐かれるし、また、懐かせねばならないんですがね、その嫌悪感を一定にとどめておくけじめが難しいということなんです。つまり、そのけじめを超えて、憤怒させたり、或いは逆に、妙な優越感を持たせたりすれば、忽ちこちらの足が挫かれるんですからね。だが、疼く程度の嫌悪感を保たせ得たら――占めたものだ。嫌悪するが故に、新たな嫌悪を容認するといった奇妙な事態が生じて……僕は行き過ぎなど顧慮せず、差し込んだ片足の範囲を広げてゆけるんです。この二つの行動方法を適用して――僕は何処へでも、まあ、たとえ泥足がはばかられる宮殿へでも、入ってゆくという訳です。尤も、絶えず嫌われながらね。……

*********


このくらいの強引さがないと生きていけないぞ、という自分への戒めのために。


  

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私Arnold Killshotが好きな映画、音楽、本について紹介していくブログです。
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①劇場・DVDで観賞した映画のレビュー(主に洋画、ホラー映画)
②洋楽の歌詞の翻訳とビデオの紹介
③読んだ本の紹介
④海外記事の翻訳(新旧問わず、インタビュー記事など)
などです。コンテンツは徐々に増えていくかもしれません。

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