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シャーロット・ブロンテ『ジェーン・エア(Jane Eyre)』(小尾芙佐・訳 光文社古典新訳文庫)

Posted by arnoldkillshot on 04.2012 本の紹介 0 comments 0 trackback
映画が公開されるので、今更ながら『ジェーン・エア』を初めて読みました。
『嵐が丘』に続いてこれを読むと、ブロンテ姉妹にとっては生きるのはあまりにもつらすぎると感じます。魂が高みを求めすぎた彼女たちの魂にとって、普通の人々のように社会的立場や境遇の中で物質的な生活をするのがいかにつらすぎたか。それでも子どものころの無垢な魂に引きこもり、過去と死後の未来の両極端にしか平穏をを見出せなかったエミリーと異なり、シャーロットはその生きづらい人生を切り開いていこうという強い意志があったのだと、『ジェーン・エア』からは感じられます。

主人公ジェーン・エアという人物を形作るのは魂の自由さ、大きすぎる感情、そして強い意志。それらを備わって生まれたジェーンの魂は激しいほどに自らの道を突き進み、同時に鏡のように従順に周囲の世界を映し出します。
物心つくまえに両親を亡くしたジェーンは「ひとりぼっちの小さなさすらいびと」。彼女の魂は行き着く場所をもとめて波乱に満ちた人生をさまよいます。自由な心を持つ彼女にとってどんな境遇も受け入れるものではなく、決して受け入れないものは全身全霊で拒絶し、心に響くもののもとへ導かれていきます。その生き方は一貫していますが、彼女が経験していくにつれやり方は変わっていきます。
最初に引き取られた貴族の家では虐待され、彼女は憎しみに憎しみを返し恐怖に打ちのめされることしか知りませんでした。しかし学校で達観した少女ヘレン・バーンズに出会い、苦痛をやり過ごし心を自由にするすべを知ります。彼女との出会いにより、ジェーンにとって境遇の辛さは敵ではなくなります。苦しみに閉じ込められた自由な魂が出口を見つけ、やがて愛に通じる道を見出す。それがロチェスター卿との出会いです。
魂の結びつきを互いに感じられるロチェスター卿との出会いで、苦しみの中で愛を知らず生きてきたジェーンははじめて人を愛することを知ります。彼が貴族の娘と結婚するといううわさを聞いたとき、ジェーンは彼への愛を抱え続けます――それは彼女の強い意志と理性が支える、何よりも自由で深い愛。その前に身分や財産が立ちはだかった時、理性は愛するがゆえに彼のもとを去ることを命じますが、ついに愛は理性の器からあふれ出してしまう。

「あなたにとってなんの意味もないものになっても、ここに留まることができるとお思いですか?わたくしは自動人形なのですか?感情のない機械なのですか?ひとかけらのパンを口からもぎとられ、命の水の入った茶碗を投げ捨てられて耐えていられるとお思いですか?わたくしが貧しいから、身分が低いから、不器量で小さいから、魂も心もないのだとお思いですか?それは間違っています!わたくしにもあなたと同じように魂があります。同じように心もあります!(中略)わたくしはいま、慣習、しきたりというものを介してあなたにお話しているのではありません、肉体を介してでもありません。わたくしの魂があなたの魂にじかに話しかけているのです。二人がお墓に入ったのち、神の御許に平等に立ったときのように。事実わたくしたちは平等です!」

人を分かつ社会、思い通りにならない肉体の壁を離れた自由な魂の言葉……これこそシャーロットが伝えたかった魂の自由さをもっとも表した言葉なのだと思います。ジェーンのこの言葉に、ロチェスターも偽りを脱ぎ捨ててジェーンに真実の愛を告白します。しかし肉体の試練を乗り越えた二人の愛を阻むのは、最も越えがたき試練――それは狂気。ロチェスターは狂人の妻を屋敷に幽閉していたのです。屋敷に隠された狂った妻、それは理性を超えた愛が狂気にもなりうるということの象徴です。そしてジェーンの理性はそれを受け入れられなかった…ロチェスターのもとを去ったジェーンは何も持たずさまよいます。

そんな彼女の前に現れたのが掟の人、セント・ジョン。高すぎる志を持つ牧師である彼はジェーンの自己犠牲的な素質を見出し、自らの恋は諦めたうえで自らの使命の伴侶としてジェーンに求婚をします。しかし彼が求めているのはジェーンの理性であり、心ではない、愛ではない。ここでロチェスターとセント・ジョンの対比が明らかになります――理性に背く愛か、愛に背く理性か。しかしジェーンは愛を知ってしまった。だから彼女はかつて愛する人を去らせた自らの理性の象徴であるセント・ジョンと対決します。セント・ジョン=理性との葛藤が頂点に達したとき、ジェーンは自らを呼ぶ声を聴きます……愛する人が自分を呼ぶ声を。
この小説において神は魂をあるべきところに導く存在であり、自然と同一です(美しい風景描写が聖書の陰陽と同じくらい出てくるのは、神がその美しい自然の中に存在するということを表しているかのようです)。そしてジェーンの魂を導いたのは愛でした。神の使命を語るセント・ジョンは神自体ではなく、神に従おうとする人間の掟です。しかし彼がジェーンの前に過酷な運命として立ちはだかるように、神に対する掟は人間をがんじがらめにし、本来自然のうちに存在する神に身を委ねることを許しません。しかし愛の衝動は、道徳などなくても自発的に自らを犠牲にささげさせる――ジェーンは正しかったのです。そして彼女は傷つき壊れてしまった愛する人のもとに帰り、彼を支えながら共に生きていくことになります。

自由な魂を持つがゆえに人より多くの苦難を経て、愛と理性の間をさまよう迷子――それがジェーン・エアという人物です。自由であるがゆえに不自由を多く知り、大きすぎる感情は喜びと悲しみの大きな振れ幅を揺れ動き、強い意志の前にはより鞏固な試練が立ちはだかる。しかし彼女の自由で大きな心と意志が道を見出した時、そこには誰も――貴族であれ貧乏人であれ、生活の幅の中で心も飛び立てず強い意志も必要としない者は誰も到達できない、すばらしい愛の風景が姿を現します。それこそ強すぎる感受性を持って生まれたシャーロットが求めた魂の高みなのかもしれません。


ところでロチェスターがたびたびジェーンを「妖精の取り替え子(チェンジリング)」と呼ぶのですが、“取り替え子”はヨーロッパの伝承で妖精が人間の子供と自分たち妖精の子供をとりかえてしまうこと。普通と同じように育たなかったり性格が普通でなかったりする子(知的・身体障害児など)は妖精の取り換え子だと考えられてきたのですが、そう考えるとジェーンの幼いころの心の激しさや頑固さ、ぶしつけなくらい正直に話してしまうところ、理性的ではあるけれど他の人間の考えには染まらないところなどは今でいう発達障害の特徴に当てはまる気がします。ジェーンの友人ヘレン・バーンズも関心があることには知識が豊富でも身だしなみがだらしなかったりぼんやりしていたりと、注意欠陥障害みたいなところがありますね。彼女らが実際そうであるかはともかく、そういう障害が知られなかった昔だと、そういう人たちは誤解されたり不当に扱われたりされがちですね。

今回『ジェーン・エア』を読んでいる間のBGMはBirdyのセルフタイトルアルバム。儚げで同時に力強い彼女のピアノと歌声がこの物語にピッタリです。音楽とストーリーがシンクロして、途中で何度も泣きそうになりました。

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エミリー・ブロンテ『嵐が丘(Wuthering Heights)』(鴻巣友季子・訳 新潮文庫)

Posted by arnoldkillshot on 08.2011 本の紹介 4 comments 0 trackback
エミリー・ブロンテ『嵐が丘(原題:Wuthering Heights)』を紹介します。
風の吹きすさぶヨークシャーに立つ<嵐が丘>と<鶫の辻>の屋敷にまつわる物語を、使用人だったネリー(エレン)が鶫の辻の間借り人ロックウッドに語ります。
アーンショウ家が住んでいた嵐が丘に、ある日一家の主人がヒースクリフと名付けられた拾い子を連れてきます。妹キャサリンとヒースクリフはかけがえのない絆で結ばれますが、兄ヒンドリーはヒースクリフを憎み、父亡き後彼をみすぼらしい姿にして虐待します。一方年頃の令嬢になったキャサリンは鶫の辻に住むリントン家の息子で、交流のあったエドガーとの縁談が決まり、それを知ったヒースクリフは姿を消します。そしてリントン夫人となったキャサリンの元に再びヒースクリフが帰ってきます、莫大な富と復讐に燃える心を抱えて…

あまりにも有名な“恋愛小説”ですが、『嵐が丘』のテーマはより内面的で、根本的な人生の葛藤についての物語だと感じました。私が読み取ったテーマは<心と身体の分裂>、あるいは<内向性と外向性の葛藤>です。
ヒースクリフとキャサリンの一心同体とも言える愛は、後に問題になる身分の差や社会的しきたりを越えた幼年時代的なもので、子ども特有の純粋無垢な愛です。しかし二人が大人になり、身寄りのないヒースクリフは使用人に落とされ、名家の令嬢であるキャサリンには社会が待っています。ここで二人でひとつだった心と身体が分裂します。キャサリンがヒースクリフに対して無神経なまでにリントン家との交流やレディとしての振舞いを軽やかに楽しんでいる姿は、感情移入が難しい点ですが、それもそのはずでその時のキャサリンには心がないのです。キャサリンの心はヒースクリフの魂にあり、ヒースクリフの社会的な肉体は奪われキャサリンだけが社会に羽ばたいていきます。けれどキャサリンとヒースクリフの完璧な愛は二人を取り巻く社会がなかったころの幼く純粋な愛であり、それに身をささげることは純粋なままで内にとどまっている心(ヒースクリフ)を救うことになっても外の社会に生きる身体(キャサリン)を貶めることになります。そして良家リントン家の子息エドガーとの結婚というかたちで心に対する身体の裏切りが決定的になった時、キャサリンの心たるヒースクリフは姿を消すのです。
しかし心を殺すことはできません――ヒースクリフは復讐に燃えて帰ってきます。今度のヒースクリフは身体すなわち権力を手にしており、心のない身体として生きるアーンショウ家・リントン家の人々を圧倒するエネルギーを蓄えているわけです。ヒースクリフの復讐が着々と進んでいく一方、キャサリンは心身ともに弱っていきます。心(ヒースクリフ)の発する凄まじいエネルギーにキャサリンの身体は耐えられなかったのです。弱っていく中でキャサリンは、何もかも統一され分裂も矛盾もなかった幼年時代に想いを馳せます――心を隠し身分相応にふるまわなくてはならない大人の社会を捨て去って、かつての二人の愛の完璧で純粋な、そしてこの世には存在しえない高みを求めます。
*********
……「なんたってうんざりするのは、この崩れかけた肉体という牢屋よ。ここに閉じ込められているのには、ほとほと嫌気がさしたわ。あの輝かしい世界に早く逃げこんで、ずっとそこにいたいの。涙でかすむ向こうにぼんやり見るだけじゃいや、うずく心臓の壁越しに焦がれているだけじゃいやなの。現実にそこに行って、そのなかにいたいのよ。ネリー、おまえはわたしより丈夫で恵まれていると思っているんでしょ。健康そのもので元気いっぱい。わたしをかわいそうに思ってる。でも、じきにそれも逆転するわよ。わたしがおまえを気の毒がるようになるんだから。おまえたちみんなとは比べようもないほど、うんと高くに、うんと上の世界に行くんだもの。……」
*********
一方ヒースクリフは、今になって幼い思いを振り返るキャサリンに本心をぶつけます。彼の言葉は彼女の心の声、身体に裏切られた心の叫びでもあります。
*********
……「いまになって教えてくれようというのか――おまえがどれほど心なく不実だったかを。なぜ俺をないがしろにした?なぜおまえ自身の心を裏切ったりしたんだ、キャシー?なぐさめの言葉などかけられん――当然の報いじゃないか。おまえは自分で自分を殺したんだ。ああ、キスしたければしろ、泣きたければ泣け。そうして俺のキスと涙をしぼりとればいい。俺のキスと涙でおまえは枯れはてて――呪われていくんだ。俺を愛していたくせに、どんな権利があってすてた?どんな権利があって――答えてくれ――リントンにつまらん夢を抱いたからか?貧しさも、屈辱も、死も、神とサタンがあたえうるなにをもってしても、ふたりの仲を引き裂くことはできなかったはずなんだ、なら、おまえが好きこのんでやったんだろう。おまえの心を傷つけたのは俺じゃないぞ、おまえが自分で勝手に傷つけたんだ。そうして自分が傷つくことで俺の心も傷つけた。俺は強いぶんだけきつい思いをさせられたよ。生きていたいかって?どんな生活があるというんだ?もしおまえに万一のことが――おお、神よ、おまえなら自分の魂を墓に埋めても生き長らえたいと思うか?」
*********
その後の章でヒースクリフ自身が言うように、「自分の命なしには生きていけない!自分の魂なしに生きていけるわけがないんだ!」ということを、互いに知っていたのに、社会というしがらみが一つの魂から心と体を分裂させてしまったということ、それが『嵐が丘』の悲劇です。キャサリンとヒースクリフの愛は根本的かつ純粋で、しかも男女の愛というよりも二つの魂を一つにするような魂の共鳴です。反対にキャサリンとエドガー、ヒースクリフとイザベラの結婚による男女の愛はマイナスの方向に進み、子どもをもうけることすら悲しみと憎悪に結びついています。これは『嵐が丘』が恋愛小説と見なされることとは裏腹に、実は『嵐が丘』は性嫌悪、非恋愛的な物語であるということの証明だと思います。
かなわない純粋な愛と社会的な男女の愛の不毛さ――ヒースクリフが生きていったのは、分裂された心と身体が再び出会うという希望を心の底で持ち続けていたからなのでしょう――それは次の世代、キャサリンの娘キャサリン・リントンとヒンドリーの息子でヒースクリフによって粗野な青年に育てられたヘアトンに託されます。

『嵐が丘』が人の心を打つのは、キャサリンとヒースクリフの激しい愛のかたちだけではなく、実は二人の愛がすべての人々のうちで眠る魂の呼び声に他ならないからだと思います。

最後に、前に紹介したKate Bushの"Wuthering Heights(邦題『嵐が丘』)"と1992年の映画化作品を合わせたミュージックビデオを見つけたので紹介します。

こちらはニューバージョンのボーカルです(こちらの方が歌がうまいので…)。映画のほうはジュリエット・ビノシュ=キャサリン、レイフ・ファインズ=ヒースクリフです。映画の評判はあまりよくないみたいで、やはり1939年のローレンス・オリヴィエ版の方が有名ですが、こちらの映画はやはりカラーだし映像もきれいなので小説の情景にはまっているかと思い選びました。

  

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私Arnold Killshotが好きな映画、音楽、本について紹介していくブログです。
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①劇場・DVDで観賞した映画のレビュー(主に洋画、ホラー映画)
②洋楽の歌詞の翻訳とビデオの紹介
③読んだ本の紹介
④海外記事の翻訳(新旧問わず、インタビュー記事など)
などです。コンテンツは徐々に増えていくかもしれません。

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